ザッパは、1978年9月3日にドイツのザールブリュッケンにあるルートヴィヒスパークシュタディオンで開催された野外フェスティバルコンサートで、インドのバイオリニスト、ラクシュミナラヤナ・シャンカールと出会った。このフェスティバルで、L.シャンカールは、マクラフリンの前身グループ「シャクティ」での活動を経て、ジョン・マクラフリンのザ・ワントゥルース・バンドで演奏していた。シャンカールとザッパは楽屋で短いジャムをしたことからザッパはシャンカールをニューヨークで演奏するように誘った。また、出会った4日後に、シャンカールはベルリンでザッパのバンドに参加してい。彼らのニューヨークでの演奏は実現し、シャンカールは10月29日を除くザッパのハロウィーン・ウィークのコンサートに出演した。シャンカールは、1979年のバンドに参加する予定だったが、参加できなかった。しかし、ザッパは、1979年2月10日にイギリスでの公演が始まるまでに、シャンカールのためにロック・ベースのザッパ・レコード・レーベルからのアルバムを制作したいと考えていた。

 L.シャンカールのアルバム「Touch Me There」のレコーディングは、1979年1月下旬にロンドンの有名なアドビジョンスタジオで始まった。シャンカールは、歌詞が必要な3曲を書いたので、ザッパは「Dead Girls Of London」、「Knee Deep In Heaters」、そしてタイトル曲の歌詞を作った。ザッパが歌詞を書いている最中に、ヴァン・モリソンから突然、仕事を探しているという電話がかかってきた。ヴァン・モリソンは、アメリカではまだザッパの訴訟相手であるワーナー・ブラザーズと契約していたが、北米以外でのレコーディングはフォノグラムが担当していたことから、ザッパはヴァン・モリソンに「Dead Girls Of London」を歌ってくれと頼み、収録は15分で終わった

 ザッパがアルバムをリリースするための制作中に、ワーナー・ブラザースから意味不明な話が再び出てきた。ザッパがアルバムを作るとき、ワーナー・ブラザーズはヴァン・モリソンのボーカルをアルバムに入れたくなかったのだ。その上、ヴァン・モリソンが曲を書いていないにもかかわらず、ヴァンのマネージャーから出版収益の半分要求があったザッパとアイク・ウィリスは、2ヵ月後の「Joe's Garage」プロジェクトのレコーディングで、ヴァン・モリソンのヴォーカルに代わって「Dead Girls Of London」を歌った。彼らの参加を偽装するために、Stucco Homes(スタッコ・ホームズ)というペンネームがフランクとアイクの共同ボーカルのクレジットに使われた。後にCD化された際には、このペンネームは使われなかった。ヴァン・モリソンのバージョンは、2011年の誕生日記念盤でようやくリリースされた。

 ワーナー・ブラザーズとヴァン・モリソンとの関係が悪化する前に、ザッパは1979年2月から4月にかけてのバンドで「Dead Girls Of London」を演奏している。2006年の誕生日記念盤に収録されているのは、「London; February 19, 1979」(ロンドン)と「Beat The Boots I: Anyway The Wind Blows」(パリ、1979年2月24日)があ。また、1980年秋のバンドでは、Buffaloで聴ける曲を演奏している。このツアーでは、当時流行していたデザイナーズ・ジーンズを揶揄するようなアレンジになっていた。1982年半ばのバンドは、「Stage Vol.5」のバージョンに見られるように、定期的にこの曲を演奏している。

 「Touch Me There(Zappa SRZ-1-1602)は1979年9月24日に発売され、この12インチ・シングルでラジオ放送用にプロモーションされた。両面ともにステレオのアルバム・マスターが使われていた。ラジオ局の番組ディレクターは興味を示さなかった。このアルバムは1992年8月18日にBarking Pumpkin D2 74243として、イギリスではZappa Records CDZAP 50としてリイシューされた。

 1980年5月10日に行われたペンシルバニア州アッパーダービーの両コンサートで、シャンカールがバイオリンを演奏した。Thirteen」(「Stage Vol.6」)では、共同作曲と演奏をしている。シャンカールはアルバム「Halloween」と「Everything Is Healing Nicely」にも参加しており、1993年1月8日のUMRKの音楽夜会では他の多くの人と一緒に参加した

 

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