ザッパとバフにとって、このシングルがターニングポイントとなった。その後の彼らの個人的、グループ的活動に大きな影響を与えた。ザ・マスターズのシングルと同様に、バフはすでにA面用に一流のインストゥルメンタル曲を録音しており、B面の曲を必要としていた。バフはサックスの演奏に多くの時間を費やし、メキシコ風のバッキング・トラックにサックスのパートをオーバーダビングする実験をした。最終的には全ての楽器を演奏し、その結果がTijuana Surfとなり、Tijuanaとも呼ばれるようになった。オリジナル・サウンド・レーベルのラボエはこの曲を気に入り、そのB面の制作状況も気にしたが、その時点で何も決まっていなかった。 A面のアーティスト名も決まっていなかったので、バフとラボエはこの曲をハリウッド・パースエーダーズのTijuanaとして、またパースエーダーズのTijuana Surfとして、それぞれポップスとサーフィンの市場をカバーするようにクレジットすることにした。

 A面はこれで良かったが、バフにとってはそのB面の曲が必要だった。バフはザッパにインストゥルメンタルの曲を依頼し、ザッパはすぐにGrunion Runを作って来た。このとき、バフはザッパの演奏と作曲能力を評価し、ザッパの才能を大きく伸ばした。ザッパのギター・トーンは、偶然にもバフがデザインしたファズ・ボックスによって強化された。バフがサックスのパートを担当し、コントロールルームに座っている間に、ザッパが残りのパートを担当したGrunion Runは非常に強力なB面となった。ザッパは1963年6月27日にGrunion Runの出版契約をアート・ラボエと結んだ。

 アート・ラボエはこのシングルをカナダ、メキシコ、アルゼンチン、ブラジルのレコード会社とライセンス契約をした。メキシコのGamma G 528からリリースされたこのシングルは大ヒットとなった。メキシコで17週間1位を獲得し、ビートルズのI Want To Hold Your Handの首位獲得を阻止した。Gammaは2つのオリジナル・サウンド・クレジットを組み合わせ、A面をLos Persuadersの Tijuanaと表記した。B面はEl Gruñon (Grunion Run)と標記した。しかし、唯一の問題があった。メキシコのシングルの利益は、現金で国外に持ち出すことができなかったということだった。このシングルの両サイドは、メキシコでもセルフ・タイトルのアルバムLos Persuaders(Diana LPD-18、1964年6月発売)に収録されている。

 ティファナの成功は、バフにとって様々なことをもたらした。ラボエは、新しいスタジオを作るための予算を用意して、バフにオリジナル・サウンドのレコーディング・エンジニアになってほしいと依頼した。バフとラボエの契約にはハリウッド・パースエイダーズやバフが使用したいアーティストの名前も含まれていた。この契約の欠点はバフがパル・レコーディング・スタジオを手放す必要が出てしまったということだった。バフは最終的にはパル・レコーディング・スタジオをザッパに売却した。これにより、1964年8月1日にパル・レコーディング・スタジオの名前は、正式にスタジオZとして知られるようになった。スタジオ売却の3日前に、モノラル・ミックスよりも少し短いGrunion Runのステレオ・ミックスを作成しており、この世には、オリジナルのモノラル・ミックス、ステレオ・ミックス、代替モノラル・ミックスが後に出された。代替のステレオミックスも存在するがリリースされていない。パル・レコーディング・スタジオをザッパに売却した後にバフが作った2つの最も注目すべきレコードはザ・ハリウッド・パースエイダーズの Drums A-Go-Goとザ・バフ・オーガニゼーションのStudio 'A.である。

 また、このグラニオン・ランのレコードはザッパを別の意味で救った。1965年3月26日にザッパが警察に逮捕された後、ザッパはラボエに弁護士費用とガールフレンドのロレイン・ベルチャーを刑務所から保釈するために、Memories Of El MonteとGrunion Runの出版印税から前金として1,500ドルを出してもらったのだ。

 なお、逮捕され10日間の懲役後、翌月にザッパが加入したこのグループ、ザ・ソウル・ジャイアンツは5月9日にザ・マザーズとなった。

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